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(九)第百〇四代後柏原天皇の御宇朝庭より勅使を派遣して當吉祥院天滿宮へ參拜せしめ給ふ一節に
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『二水記 干中及和長記 干中
大永二壬午十一月二十二日早且[1]菅大納言(坊城)長者拜堂出任見物也、
路次樣 行粧美麗なり。
先如木雜色乘馬
次主人(小雜色八本四方輿力者舁レ之
次布衣侍騎馬(大房繼之水干(○虫食)之布衣紙色革白袴如レ恒)
次侍從扈從(束帶々劒四方輿)
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先ヅ詣デテ二吉祥院ニ一可レ被レ詣二北野社一云々
秉燭之程參內、
田樂事也、
各申沙汰如二例年一云々』
右記の如く第一に吉祥院天滿宮に御參拜あらせられ然る後に北野社に詣でらるゝ例なりければ吉祥院天滿宮にありては常に勅使の參向は午前中にて北野社へは御晝飯後或は夕刻若くは後日のことに定め給ひしを見ても如何に吉祥院天滿宮を御尊崇御鄭重に御取扱ひ遊ばされしかを押しはかるべし。
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(一〇)同前『大永五年八月廿八日食後詣二御靈社一至二今月一三月結願也
午後詣二北野社一云々』
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(一一)同前 干中
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『大永六年十一月廿一日早旦內侍所食後詣二御靈、北野社等一午刻參二伏見殿一云々』
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(一二)同前 干中
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『大永七年三月一日云々詣二御靈社幷北野社一中院姉小路等同道也』
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(一三)第百〇五代後奈良天皇の御宇朝庭より勅使御派遣のこと
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『和長記二水記 干中
享祿三年庚寅九月七日早旦詣二御靈、北野社堂一五辻同道也』
右文中、御靈社、御靈、吉祥院とあるは皆當吉祥院天滿宮のことにして當時は吉祥院御靈と申し御靈驗あらたかなる三所御靈の一なり。
外記日記 干中『三所御靈とは西寺御靈堂と上和御靈堂と吉祥院也』とあり。
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(一四)第百〇五代後奈良天皇は天滿宮御神號を御宸翰ありて奉納し給へり。
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(一五)第百〇八代後水尾天皇は吉祥院天滿宮を特に御尊崇ありて、元祿四年[2]四月十二日神殿御造營幷正遷宮の際種々御奉納あり。
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1、銀一貫二百九十目御奉納。
2、本社東鳥居額御神號を御宸翰ありて御奉納。今に存す。
3、天滿宮御神號を御宸翰ありて御奉納。
4、御紋章入白御幕二張御奉納。
5、御紋章入提灯二張御奉納。
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(一六)准后東福門院殿より天滿宮唐門を御寄附。
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元祿四年[2]四月十二日神殿御造營正遷宮の際。
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(一七)仙洞樣禁中樣[3]より御簾二十間奉納。
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(一八)仙洞樣御參詣ありて御撫物奉納。
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(一九)同正宮樣御參詣ありて御撫物奉納。
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(二〇)同澤宮樣參拜ありて御撫物奉納。
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(二一)桂宮一品知仁親王は菅公の御神影を御繪きありて御奉納。
[1] | 「旦」の誤記のような気がしますが、原文通り「且」と表記します。 |
[2] | 後水尾天皇は1680年没、東福門院も1678年没なので、元禄四年(1691)は年代が合いません。
原本p342に「菅公七百二十五年御忌に相當す」とあるので、寛永四年(1627)の誤記と思われます。
なお、(二一)の桂宮一品知仁親王(八条宮智仁親王)も1629年没です。 |
[3] | 仙洞様と呼ばれた霊元天皇(1654-1732、在位:1663-1687)と東山天皇(在位:1687-1709)は元禄四年(1691)で年代が合います。
後水尾天皇・東福門院の情報と霊元天皇・東山天皇の情報が混ざり合っているようです。 |
更新日:2021/02/13